祗園新橋が現在のような姿になるのは江戸時代に入ってから。鎌倉時代から八坂神社の門前町として人家が建ち並んでいましたが、応仁の乱で焼失しました。その後は神官が住み、農家が点在するだけになってしまいます。
1607年に鴨川両岸に堤が築かれると、大和大路(縄手通)に茶屋が作られ始め、1712年には現在の祗園新橋にあたるところも開かれます。付近にあった芝居小屋と結びついて、芝居町のようであったそうです。
その後1865年の大火によって焼失するも、幕末の勤王の志士、明治の要人と結びついてすぐに復興します。
このあたりの独特の雰囲気は、京都花街の文化から生まれた独自の美的感覚によるものだと思います。江戸自体からのその感覚が、現在の我々をも魅了しているのです。
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