芸術について

素晴らしい芸術というのは、たぶん、できるべくしてできるのだと思う。義務とか当然という文脈ではなくて、表現せずにはいられない人が、手許にある表現方法によって、自分の中にある熱源みたいなものに押されて、表現するのだと思う。優れた芸術というのは、その言葉から受ける印象のように静かなものではなくて、フィジカルで暴力的な欲求のもとに生まれるのではないかと私は前々から考えている。ジャズを聴いているとそういう印象を受ける。

私は1950年前後に生まれたモダン・ジャズを主に聴いているのだが、その音楽は異様にソリッドである。身体にピシピシと直接的に来るものがあるのだ。もちろん、その延長として心に響くものもあるが、まず身体、という感じがする。音楽的に言うといろいろな手法や理論があるのだろうが、理論は既に存在するものを説明するために考えられたものであって、芸術は理論から生じるものではない。


ただし、表現せずにはいられない人間が必ず優れた芸術を残すとは限らない。私が文章を書くことを誰からも習うことなく書くようになったのも、たぶん文章として表現せずにはいられない何かが私の中にあったからだろうと思う。しかし、その「熱源」から発せられた文章は芸術に昇華することなく、当たり障りのない散文としてPCのハードディスクの中にある。そして一部の、まだマシなものはこうしてサイト上に公開される。


私はわりと器用な方だと思う。いろいろなスキルを身につけるのは早い方だと思うし、好きなことに関しては平均以上のことはできる。文章を書くにしても、Webサイトを作るにしても。

しかしながら、Webサイトを見て「まぁまぁ綺麗じゃない」と感心してくれる人はいるとしても、「これは素晴らしいじゃないか」と感動してくれる人はまずいないだろう。また、私の文章はそんなに読みにくくはないと思うし、言いたいことは比較的ちゃんと述べていると思うが、それ以上ではない。

このあたりが芸術家とそれ以外の人との相違である。芸術の持つきらめきを作り出すのに必要なのは、器用さとはおそらく全く違ったものなのだ。努力すれば小綺麗な文章を書くことができよう。しかし、それがある一線を越えて優れた小説や詩に昇華するようになるには、おそらく何か必要なのである。簡単に言えば「才能」ということになる。


私は昔、努力すれば「きらめき」を持つものを生み出すことができると思っていた。学校の教育に毒されていたのかも知れない。「努力すればできないことはない」と。しかし、高校生の時、私にはそれが不可能であることに気付いた。あるときにふと分かったのである。私が生み出すことができるのは、いくらかの人を感心させることができるにしても、当たり障りのないものでしかない、ということに。それは哀しくもあり、一方では「自分は自分ができることしかできないんだ」という気持ちの区切りでもあった。


とはいえ、はっきり言って「きらめき」を持たないものを1万個作り出したところで、「きらめき」を持つものひとつの価値すらないと私は思う。たとえば、音楽のことを考えてみてほしい。テクニックはあるが心に訴えるもののない演奏を1万回聴くよりも、心を震わせてくれる演奏を1回聴きたい。芸術というのは、圧倒的なものである。「ふーん、いいじゃん」というようなものではない。身体と心に染み渡るものがあってこそ価値があるのだ。そして、私は(おそらくは誰もが)そういうものに出会うために音楽を聴き、小説を読む。


ただ、きらめきのない文章を書き、サイトを作り、写真を撮っているにしても、それをやめることはおそらくない。私にとってこれらは生活の一部なのだ。その過程で作られるものが他人にとっては価値のないものだとしても、才能に恵まれなかった私の内にある「熱源」によって生み出されるものなのだから。

2001年10月19日
加筆:2002年8月13日、2004年10月18日